第二部のはじめに:魂の軌跡 ― 代表作で巡る中也の詩的世界
第一部【総合ガイド】では、詩人・中原中也の生涯や創作の背景、そして彼の詩が持つ多面的な魅力について、全体像を概観しました。広大な中也の世界への入口に立つための地図をご提供した形です。

この第二部では、その地図を手に、いよいよ詩のことばが渦巻く深淵へと分け入っていきます。あくまで筆者に可能な範囲になりますが、個々の代表作に焦点を当て、一行一行に込められた仕掛け、響き合う音、詩人の魂の軌跡を、より分析的な視点から、わかりやすく読み解いていきます。
私たちの旅は、中也が生前に唯一刊行した第一詩集『山羊の歌』から始まります。若き日のほとばしるような抒情、音楽的なリズムの中に刻まれた焦燥と慟哭。続く第二詩集『在りし日の歌』(中也の死後刊行)では、その世界はさらに内省を深め、澄み切った静寂のなかに、孤独や死生観を宝石のように結晶させています。
これら二つの詩集を辿ることは、中也が30年という短い生涯の中で、自らの魂とことばをいかに燃焼させ、純化させていったかを追体験する旅にほかなりません。
準備はよろしいでしょうか。ことばのプリズムを通して、中原中也という稀有な魂の軌跡を共に巡りましょう。
第一詩集『山羊の歌』より
「汚れつちまつた悲しみに……」― 拭えない悲しみを歌うということ
中原中也 「汚れつちまつた悲しみに」 (青空文庫『山羊の歌』から)汚れつちまつた悲しみに
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
この詩は中也の代表作として広く知られています。冒頭から
汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる
と繰り返されるフレーズが、抽象的な悲しみそのものをじっと捉えます。具体的な出来事を語るのではなく、狐の毛皮のコートのように悲しみが身にまとわりつくイメージや、小雪が降り積もる光景をつなぎ合わせることで、拭い去ることのできない深い孤独感を表現しているのです。
ここでは自己嫌悪や自己憐憫が交錯し、悲しみに覆われた自分をどこか客観的に眺める視線も感じられます。日々がただ過ぎゆくことへの諦念とともに、”今日も明日も同じ悲しみが続く” という感覚がリフレインの中に重ねられていきます。静かに降り続く雪は心の内側を凍らせる冷たさと、悲しみを洗い清める優しさという二面性を象徴し、読者は自分の中の悲しみと向き合う準備をそっと整えられていくでしょう。

こうして縦列に並べてみると、いかにも現代風の歌謡曲などの体裁のようにも見えます。でも私にはいっそう魅力が強くなる感じがします。第一連は「汚れつちまつた悲しみに」と繰り返し、第二連、三連は「汚れつちまつた悲しみは」を続けて挟む。第四連でまた初めの「悲しみに」で締めくくります。この絶妙な逆転の移調がともすればくどいように聞こえる反復から退屈さを払拭しています。
「サーカス」― ゆらめく空中ブランコの哀愁
中原中也 「サーカス」 (青空文庫『山羊の歌』から)サーカス
幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました幾時代かがありまして
今夜此処での一と殷盛り
今夜此処での一と殷盛りサーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ頭倒さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよんそれの近くの白い灯が
安値いリボンと息を吐き観客様はみな鰯
咽喉が鳴ります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん屋外は真ッ闇 闇の闇
夜は劫々と更けまする
落下傘奴のノスタルヂアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

サーカス小屋の梁で揺れるブランコを見上げる観客のざわめき、そして「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」という不思議な音が繰り返される。この音は空中ブランコが揺れるリズムを模していると同時に、過ぎ去っていく殺伐とした時代の遠い記憶のようでもあり、読者を不思議な時間感覚へと誘います。
華やかなテントの外には「真ッ闇の闇の闇」が広がり、瞬間的な賑わいの背後にぽつんと取り残されるような寂寥感が忍んでいます。賑やかな場面で感じる心細さや、過ぎゆく時間への郷愁と不安が、音とリズムを通じてさりげなく表現されています。読み終えたあと、耳に残るリフレインとともに、華やかさの裏に潜む暗闇を思い返すとき、私たちは日常の喧騒の中に隠ぺいされた孤独に気づかされるのです。
「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」という有名なオノマトペは、まるで宮沢賢治の童話から聞こえてきそうな似た響きを感じます。しかしこの奇怪な歌声は、寂しさと悲しみに苛まれすぎた現代の私たちをどこへ誘おうとしているのでしょうか。
「帰郷」― 彷徨える魂の告白
帰郷
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が
心細さうに揺れてゐる山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
路傍の草影が
あどけない愁みをするこれが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
心置なく泣かれよと
年増婦の低い声もするあゝ おまへはなにをして来たのだと……
中原中也 「帰郷」 (青空文庫『山羊の歌』から)
吹き来る風が私に云ふ
「帰郷」は、晴れ渡った故郷の光景から始まります。しかし、その明るさは単なる安堵や懐かしさではなく、読者の胸にかすかな違和を響かせます。中也は、晴天の情景を描きながら、その奥に潜む孤独と自己への問いを浮かび上がらせているのです。
反復される「今日は好い天気だ」
詩の前半では、「今日は好い天気だ」という一節が繰り返されます。本来なら朗らかな明るさを示す言葉ですが、蜘蛛の巣や草影といった “か弱く、脆い存在” と並べられることで、むしろ不安や心細さを強調します。中也特有の光と翳りの同居が見られます。
故郷の風景と「泣かれよ」という声
中盤では「これが私の故里だ」と宣言しつつ、風や年増女の低い声が「心置なく泣かれよ」と語りかけます。これは故郷を母性的な慰撫の場として描くと同時に、安らぎと諦念が混ざった響きを持ちます。故郷とは、ただ懐かしさを与える場所ではなく、涙を許し、心の奥をさらけ出す場なのです。
結びの風の問いかけ
最後に吹きつける風は、詩人自身への鋭い問いとなります。
あゝ おまへはなにをして来たのだと……
帰郷は回復の旅ではなく、むしろ自己を裁く「審問の場」として立ち現れるのです。この一行が詩全体を反転させ、読者にも自己省察を促します。
音と季節感の表現
「乾いてゐる」「枯木」「さやかに風」など、全体を通して “乾いた空気” が漂います。涙はまだ流れていないが、流す直前のような張りつめた時間。この気配が、詩全体を淡い緊張で包み込んでいます。さらに、繰り返される「ゐる」「する」のリズムが、息の短い拍を作り、読後に微かな倦怠感を残します。
「帰郷」は、晴天の描写から始まりながら、最後には内面への痛烈な問いで締めくくられます。ここには、中也が「故郷=安らぎの場」とは異なる次元で、光と翳りの交錯する心象風景を刻みつけた姿勢が見て取れます。
「朝の歌」― 完成された絶望の美学
第一詩集『山羊の歌』には、「サーカス」のような躍動感あふれる詩や、「汚れつちまつた悲しみに……」のような魂の慟哭を歌った詩など、若き中也のほとばしる感情が刻まれた作品が数多く収められています。その中でもひときわ異彩を放つ静寂さと完璧なまでの造形美をたたえているのが、この「朝の歌」です。
朝――それは本来、一日の始まりであり、希望や再生の象徴です。しかし中也が描く朝の光景には、そうした生命力とは裏腹の、冷たく澄み切った諦念と、底知れない孤独の気配が満ちています。多くの読者は、この詩に触れたとき、胸を締め付けられるような悲哀と、同時に抗いがたいほどの美しさを感じるのではないでしょうか。
では、この “悲しいのに、美しい” という感覚の正体は何なのでしょうか。
実はこの詩の美しさは、偶然の産物ではありません。鐘の音(聴覚)、朝焼けの色(視覚)、肌を撫でる空気(触覚)といった感覚の巧みな配置。過去と現在が静かに行き来する、夢の中のような時間表現。そして、一語一語が緻密に計算された音楽的な響き。これら全てが、まるで精巧な建築物のように組み上げられ、一つの完璧な美学を形成しているのです。
一見、静かな朝の情景を描いた詩でありながら、その水面下には、中也の詩的技法のすべてが凝縮された、驚くべき構造が隠されています。
それでは、次の【特別分析】の章で、この「朝の歌」という詩の建築物を一つひとつのパーツに分解し、その設計図を徹底的に解剖していきましょう。なぜこの詩が完成された絶望の美学と評されるのか、その秘密が、まもなく明らかになります。
第二詩集『在りし日の歌』より
「骨」― 軽やかな口語で描く死生観

骨
ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖。それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑しい。ホラホラ、これが僕の骨――
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?故郷の小川のへりに、
中原中也 「骨」 (青空文庫『在りし日の歌』から)
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、――僕?
恰度立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。
中原中也の詩「骨」は、死をテーマとしながらも、湿っぽさや悲壮感を排し、独自の乾いたユーモアと突き放したような客観性によって、生と死の本質を鮮烈に描き出した作品です。その魅力は、ユニークな死生観と、それを支える巧みな表現方法にあります。
魅力:突き放した視点とユーモアに満ちた死生観
この詩の最大の魅力は、自らの「死」をまるで他人事のように、あるいは珍しい出土品でも紹介するかのように「ホラホラ、これが僕の骨だ」と提示する、その突き放した視点にあります。この冒頭の一行で、読者は死の持つ重苦しいイメージから解放され、奇妙に軽やかな詩の世界へと引き込まれます。
語り手である「僕」は、かつて「苦労にみちた/あのけがらはしい肉」をまとっていた生前の自分を、半ば侮蔑的に振り返ります。そして、肉体が朽ち果て、雨に洗われて白く現れた骨の存在に、ある種の解放感と純粋さを見出しているかのようです。この生々しい “肉” と無機質な “骨” との対比は、生の苦しみや執着から解放された、死後の静謐な状態を際立たせています。
さらに、この詩は “死” を滑稽なものとして描きます。第三連では、「食堂の雑踏」や「みつばのおしたしを食つた」という、極めて日常的で些細な生前の記憶が、風雨に晒される骨という現在の姿と結びつけられます。この途方もないギャップが、「なんとも可笑しい。」という感想を生み出すのです。崇高でも悲劇的でもない、あまりに平凡な日常の記憶と、絶対的な “死” との対峙。この対比によって生まれるペーソスとユーモアこそ、中也の描く死生観の独創性と言えるでしょう。
また、後半で「見てゐるのは僕? 可笑しなことだ」と、自己認識の揺らぎという哲学的な問いへと深まっていきます。肉体を失った自分とは一体何者なのか。身体から離脱した “霊魂” が、故郷の小川のほとりで自らの骨を眺めているのではないか、という思索は、私たち読者に自己とは何かという根源的な問いを投げかけます。
表現方法:口語のリズムと鮮やかなイメージ喚起
こうした独特の世界観は、中也ならではの巧みな表現方法によって支えられています。
第一に、口語的でリズミカルな文体が挙げられます。「ホラホラ」「~だ」「~こともある」「~かしら?」といった親しみやすい口語表現は、軽快なリズムを与え、難解な死というテーマを身近なものに感じさせます。特に冒頭と第四連で繰り返される「ホラホラ」という呼びかけは、読者の注意を惹きつけ、印象付けるリフレインとして効果的に機能しています。
第二に、象徴的な言葉の巧みな使用です。特に3回出現する「しらじらと」という言葉の反復は秀逸です。骨の白さを視覚的に示すだけでなく、感情の抜け落ちた虚無感、浄化された純粋さ、夜が明けていく空の色のような寂寥感、といった、多層的なイメージを喚起します。また、「ヌックと出た」という擬態語は、生命活動を終えた骨が、まるで植物の新芽のように、意志なく地面から突き出ている様子を鮮やかに捉えており、非情でありながらどこかユーモラスな印象を与えます。
第三に、具体的な情景描写が生み出すリアリティです。「食堂の雑踏」「みつばのおしたし」「故郷の小川のへり」「半ばは枯れた草」といった具体的なディテールは、観念的になりがちな死の思索に、確かな手触りと風景を与えています。そして最後の「恰度立札ほどの高さに」という比喩は、風化した骨の孤独な姿を映像的に切り取り、静かな余韻を残します。
詩「骨」は、死を冷静に、時にユーモラスに観察する独自の視点と、それを支えるリズミカルな口語、象徴的な色彩語、そして具体的なイメージ喚起といった卓越した表現方法とが一体となり、読む者に強烈な印象を与えます。単純な、生の行く末の死をなぞったものではなく、肉体と魂や自己の存在をめぐる普遍的な問いを、私たちに投げかけ続ける不朽の名作と言えるでしょう。
「一つのメルヘン」 — 静けさの中に芽生える光の孤独

一つのメルヘン
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
中原中也 「一つのメルヘン」 (青空文庫『在りし日の歌』から)
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
この詩は、生と喪失の狭間で見つけた、励起する光のような回復の一篇です。まず冒頭の風景が鮮烈です。
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました
というその景色には、夜という時間と、さらさらと射す陽光が重なっていて、”あるはずのない光” が闇の中にほのかに存在しているような、不思議な美しさがあります。
光が硅石のような粉末のような個体でありながら、さらさらと音を立てて川床に落ちていく。軽く、透明で、でも重みを持つ。その質感が詩全体に幽かに漂っています。続く蝶の登場は、その世界に一瞬の “生命の印” を刻む場面です。淡く、それでいてくっきりとした影を落とす蝶。「一匹」ではなく「一つの蝶」なのです。影の淡さと輪郭のくっきりさ、生物の動きと無機質な存在感、それらの対比に、孤独を抱える心の在り方が映ります。
蝶が見えなくなった後、今まで水が流れていなかった川床に水がさらさらと流れ出すその瞬間が、詩の中でひときわ大きな転換点です。そこには、単なる哀しみや喪失を超えて、世界がまたいつも通り動き出すという予感があります。存在の静止が解け、時間が流れ、生きることの根源的な ”声” がこだまします。平凡極まりない「さらさらと」という擬態語が、まるで手品のように我々を驚かせ魅了します。
この詩の孤独は、鮮烈な痛みや激情ではなく、むしろ静謐な祈りのようです。夜の闇、干からびた河原、消えゆく蝶。そこにあるのは絶えない燐光と流れです。中也はこの作品を、弟を想う鎮魂の詩として書きました。小林秀雄が「最も美しい遺品」と呼んだことでも知られています。
【特別分析】「朝の歌」を解剖する

中原中也の「朝の歌」は、詩人・中原中也の代表的な作品の一つで、彼の詩人としての出発点となった記念碑的な詩です。1926年(大正15年)に初稿が書かれ、1929年(昭和4年)に雑誌『生活者』に掲載後、1934年(昭和9年)の第一詩集『山羊の歌』に収められました。
原文と現代語訳
原文
朝の歌
天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶ひ
手にてなす なにごともなし。小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦んじてし 人のこころを
諫めする なにものもなし。樹脂の香に 朝は悩まし
うしなひし さまざまのゆめ、
森竝は 風に鳴るかなひろごりて たひらかの空、
中原中也 「朝の歌」 (第一詩集『山羊の歌』から)
土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
現代語訳
朝の歌
天井に 赤い色をおびて
戸の隙間を 漏れ入る光、
田舎めいた 軍楽の思い出
手にするものなど 何もない。
小鳥たちの 歌は聞こえず
空は今日 薄青色らしい、
疲れ果てた 人の心を
諫めてくれる 何者もない。
樹脂の香りに 朝は悩ましく
失ってしまった さまざまな夢、
森並みは 風に鳴っている
広がって たおやかな空、
土手沿いに 消えていく
美しい さまざまな夢。
感覚の多層構造:中也の仕掛けを読み解く
韻律と音韻の織りなす哀愁
この詩の最も印象的な特徴は、七五調を基調とした韻律の中に散りばめられた音韻的工夫です。「手にてなす なにごともなし」「なにものもなし」という “なし” の反復は、単なる否定の強調を超えて、虚無感を聴覚的に体現しています。二つの「無」の表現は、微妙な意味の差異を持ちます。前者は行為や対象の不在を、後者は主体や存在の不在を示しており、詩人の絶望が外的世界から内的世界へと深化していく様子を表現しています。
また、”かな” という詠嘆の助詞が三度使用されることで(「鳴るかな」「ゆくかな」「夢」への暗示的な “かな” )、古典和歌の抒情性を現代詩に移植する効果を生んでいます。
色彩語の象徴的機能
「朱きいろ」「はなだ色」という二つの色彩語は、対照的な象徴性を持っています。朱色は生命力や情熱を表す暖色でありながら、それが「戸の隙を 洩れ入る」という限定的な光として描かれることで、詩人の生命力の衰退を暗示しています。一方、「はなだ色」(薄い藍色)は、古典的な美意識を表すと同時に、冷淡で遠い感情を象徴し、詩人の心境の寂寥感を色彩によって表現しています。
時制の巧妙な操作
詩全体の時制構造は注目に値します。現在形「洩れ入る」「きこえず」から、過去完了「うしなひし」へ、そして現在進行形「きえてゆく」へと移行します。これは記憶から現在、そして未来への時間の流れを表すと同時に、夢の消失という不可逆的なプロセスを時制によって強調しています。
感覚の階層と内面への沈潜
視覚→聴覚→嗅覚への感覚の移行は、表層的な現実認識から深層的な記憶・情感へのプロセスを表しています。特に「樹脂の香に 朝は悩まし」という表現は、嗅覚という最も原始的で情動的な感覚を通じて、理性を超えた存在の根源的不安を表現しています。
空間構造の象徴性
詩の空間構造は「天井→戸の隙→空→森竝→土手」という垂直・水平の拡がりを示しています。しかし、この空間の拡張は解放感ではなく、むしろ詩人の孤立感を強調する効果を持っています。「ひろごりて たひらかの空」の広大さは、「うつくしき さまざまの夢」の消失をより際立たせる背景として機能しています。
中也的「美しい絶望」の完成形
最終連での「うつくしき さまざまの夢」という表現は、中也の詩学の真髄を表しています。夢の喪失を嘆きながらも、それを「うつくしき」と形容する逆説的な美意識は、絶望そのものを美的対象として昇華させる中也特有の境地を示しています。「きえてゆく」という現在進行形は、この消失のプロセスそのものに美を見出す、諦観を超えた美学的態度を表現しています。
文語と口語の融合がもたらす効果
「鄙びたる」「倦じてし」「諫めする」といった、文語的表現と「人のこころを」「きえてゆく」という口語寄り表現の混交は、古典的美意識と現代的感性の融合を表しており、中也独特の詩的言語を形成しています。この言語的混交は、失われゆく古き良きものへの憧憬と、それを受け止める現代的自我の複雑な心境を反映していると言えるでしょう。
まとめ:歌詩人・中原中也が遺したもの

『山羊の歌』の慟哭から、『在りし日の歌』の静謐へ。私たちはこの第二部で、「汚れつちまつた悲しみに……」の音楽的悲哀にはじまり、「サーカス」の幻想と虚無、「朝の歌」に結晶した完璧な絶望の美学、そして「骨」が示す軽やかな死生観まで、中原中也の詩的世界を巡ってきました。
一つひとつの作品を深く読み解く中で見えてきたのは、単なる感傷や悲嘆に留まらない、極めて理知的で計算された詩の構造でした。彼は、ほとばしる感情を、磨き抜かれたことばのリズムと鮮烈なイメージへと昇華させる方法を自覚的に探求し続けた詩人です。その音楽性は魂の調べそのものであり、色彩豊かなイメージは、私たちの心象風景に直接触れてきます。
では、時代を超えて、中原中也が私たちに遺したものとは何でしょうか。
おそらくそれは、拭い去ることのできない悲しみや喪失を、無理に消し去ろうとせずに受け容れる静かな覚悟でしょう。彼は悲痛や虚無から目を逸らさず、徹底して見つめ抜き、それを比類なき美の結晶へと昇華させました。その姿は、ままならぬ現実を生きる私たちに、悲しみを自らの一部として抱きとめ、生き抜く勇気と、絶望の淵にさえ差し込む一条の光を示しています。
彼の詩は、名づけようのない感情にそっと寄り添い、そこに輪郭を与えてくれます。この記事を閉じた後、どうかもう一度、彼の詩集を手に取ってみてください。あたかも遠い昔に耳にした歌声のように、親しくも切ない響きとなって、中也のことばは魂に直接語りかけてくるでしょう。それは、あなた自身の内奥にひそむ声に耳を澄ませる、新たな旅路の始まりとなるはずです。
【 青空文庫 中原中也 『山羊の歌』】
底本:「中原中也詩集」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年6月16日第1刷発行
1997(平成9)年12月5日第37刷発行
底本の親本:「中原中也全集 第1巻 詩」角川書店
1967(昭和42)年10月20日印刷発行
初出:「山羊の歌」文圃堂
1934(昭和9)年12月10日
入力:浜野安紀子
1998年11月29日公開
2010年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
【 青空文庫 中原中也 『在りし日の歌』】
底本:「中原中也詩集」岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年6月16日第1刷発行
1997(平成9)年12月5日第37刷発行
底本の親本:「中原中也全集 第1巻 詩 」角川書店
1967(昭和42)年10月20日印刷発行
初出:「在りし日の歌」創元社
1938(昭和13)年4月
入力:浜野安紀子
校正:浜野 智
1999年2月17日公開
2010年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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