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消えた灯火たち
戦後、若くして散った10人の詩人|全7回連載
定型という檻、あるいは聖域

五・七・五・七・七。
31文字という厳格な型。千年以上の伝統を持つ日本の定型詩、短歌。この制約の中で、どれだけの人間の感情が凝縮され、結晶化されてきたことでしょうか。
自由詩であれば、言葉はどこまでも広がっていくことができます。しかし、短歌には容赦ない制限があります。31文字。一文字多くても、一文字少なくてもいけない。この厳格さは、表現者にとっては檻のように感じられることもあります。
しかし、この制約こそが短歌の力でもあります。過剰な感情を、溢れ出る言葉を、31文字という小さな器に閉じ込めることで、高密度のエネルギー体となります。まるでダイヤモンドが、炭素が極限まで圧縮されることで生まれるように。
今回取り上げる二人の歌人、杉原一司と中城ふみ子は、まさにその圧縮の極致を生きた人たちでした。一人は23歳で、一人は31歳で、この世を去りました。しかし彼らが遺した31文字の結晶は、今も変わらぬ輝きを放っています。
杉原一司――塚本邦雄の「影」あるいは「光」

幻の天才と「メトード(方法)」
杉原一司(すぎはら・かずし)。この名前を知る人は、短歌の世界でさえ多くはありません。なぜなら、彼は生前に歌集を一冊も刊行することなく、23歳で世を去ったからです。
しかし、戦後短歌史において彼の名前が完全に消え去ることはありませんでした。彼には一人の語り部がいたからです。その名は、塚本邦雄。戦後前衛短歌を代表する巨星です。
杉原一司は1926年(大正15年)生まれ。天理語学専門学校(現・天理大学)でフランス語を学び、フランス象徴主義やシュルレアリスムの詩に深く傾倒しました。ボードレール、ランボー、マラルメ。彼らの言葉の錬金術は、杉原の短歌観に決定的な影響を与えました。
1949年、杉原は塚本邦雄と共に短歌同人誌「メトード(方法)」を創刊します。この誌名そのものが、彼らの野心を物語っています。短歌を単なる心情の吐露や生活の記録ではなく、意識的な「方法(メトード)」によって構築された芸術作品として自立させること。それが彼らの目標でした。
言葉の錬金術師
杉原の短歌は、当時の短歌界の主流からは大きく外れたものでした。
彼は、日常語ではなく、豊富な漢語や古語、さらには翻訳調の語彙を駆使しました。感情を直接的に表現するのではなく、象徴的なイメージの連鎖によって、読者の内面に何かを喚起させようとしました。それは、フランス象徴派の詩法を31文字の器に移植する試みでもありました。
彼の歌は難解でした。ペダンティックで、装飾過剰とも言えました。しかし、その絢爛豪華な言葉の織物の中には、確かに新しい美の可能性がありました。
1950年、早すぎる終焉
杉原一司の活動期間は、わずか数年でした。1950年、彼は結核(あるいは戦後の劣悪な衛生環境に起因する病)により、23歳でこの世を去ります。
彼が遺した歌の数は、それほど多くありません。歌集を編む時間も機会も、彼には与えられませんでした。もし彼があと10年、20年生きていたら、戦後短歌の歴史は変わっていたかもしれません。
でも、彼は逝きました。その死は一人の友人の心に、深い傷とともに強烈な使命感を残しました。
塚本邦雄という「墓碑」
塚本邦雄は、杉原一司の死後、生涯を通じて彼のことを語り続けました。
塚本の初期歌集『水葬物語』(1951年)に見られる、絢爛豪華で難解な語彙、現実を否定するような耽美的な美意識。それらは、杉原一司が目指していた方向を、塚本が引き継ぎ、さらに増幅させたものだと言われています。
塚本は後年、こう語っています。「杉原が生きていれば、自分は歌を辞めていたかもしれない」。
この言葉は、杉原への最大の賛辞であると同時に、塚本自身の痛切な喪失感の表現でもありました。塚本にとって、短歌を作り続けることは、杉原の遺志を継ぐことであり、彼のために歌を詠むことでもあったのです。
杉原一司は、自らの肉体は滅びました。歌集も残せませんでした。しかし、彼は塚本邦雄という巨大な文学的達成の中に、そのDNAを色濃く残しました。彼は「塚本邦雄の一部」として、戦後短歌史に永遠に刻まれることになったのです。
これは、無名の夭折者が文学史に与えた影響としては、稀有かつ幸福な例と言えるでしょう。彼は消えたのではなく、変容して生き続けたのです。
杉原一司の歌を読む

まず基本的なことを確認しておくと、杉原一司には生前の歌集がありません。彼の歌は、「メトード(方法)」への掲載、追悼選、そしてアンソロジーという経路をたどって、後世に届きました。
これは単なる書誌情報ではなく、大切な前提です。彼の歌は「彼自身が編んだ一冊」としてではなく、批評家や編者の引用によって生き延びた。その筆頭が、塚本邦雄なのでした。塚本はその評論の中で、繰り返し杉原の歌を取り上げました。杉原の歌を読むことは、”誰かに語り継がれる” ということの意味を考えることでもあります。
🔖 「方法(メトード)」って何?
1949年に創刊した同人誌は前述した「メトード(方法)」ですが、この名前に杉原と塚本の野心が凝縮されています。
杉原は、当時の短歌とは違う立場を取りました――歌は何を詠むかより、どう作るかが本質だ、と。その「どう(How)」を、作品の内部に具体的な操作として刻み込んでいます。
具体的には、こんなことをやっています。
- 名詞をたくさん並べる――動詞をほとんど使わず、物の名前を密度高く連ねる。接続の文法ではなく並べ方が意味を作る。
- 機械・標本・外来語を持ち込む――録音器、骨格模型、ルーレット。日常の物が比喩としてではなく等価に置かれる。
- 主体(私)を消す――誰が見ているのか、を明示しない。その空白が、読む側を引き込む。
★ 黒シャツの歌 ――孤独の「待機」を読む
では実際に読んでみましょう。批評家たちが最も多く引いてきた、杉原の代表作からです。
構造を整理すると、この歌には 「黒シャツ(衣服)」「合歓の花かげ(植物・自然)」「誰待つとなく(目的のない待機)」 という三つの層があります。
注目したいのは「誰待つとなく」という句です。「誰かを待っている」でも「誰も待っていない」でもなく、「誰を待つというわけでもなく」。目的の消えた待機。怠惰でも絶望でもなく、もっと沈静な、ある種の宙吊り状態です。
そこへ「合歓の花かげ」が効いてきます。合歓(ねむ)は夕暮れに葉を閉じる植物で、夏の夕方の匂いと陰翳を召喚します。「黒シャツ」のカチッとした硬質感と、「合歓の花かげ」の揺れる柔らかさ。この対比の中に、主体はただ溶けるように「一日暮らす」。

塚本邦雄がこの歌を繰り返し論じ、孤りではない、という言葉を杉原に捧げたのは有名な話です。この歌は孤独の証明であるし、友情の記憶としても機能する。23歳で逝った杉原を、塚本はこの歌ごと抱えて生涯を過ごした。そう思うと、この31音がずっしりと重くなります。
★ 録音器と骨格模型の歌 ――物が感情の代わりをする
次の歌は、物の配置が感情を作るという杉原の方法が、よりはっきり現れる例です。
花があくびをする。そして棚には録音器が置き忘れられている。
花のあくびは擬人法ですが、重要なのはその効果です。「倦んでいる、疲れている」という感情が、花という植物に代理され、部屋の棚に放置された録音器も機能を止めている。録音しない機械と、向かってこない花。二つの機能停止が、夜半の部屋の気怠さを作ります。
注目は、杉原が「孤独だ」とも「倦んでいる」とも一言も言っていないことです。ただ物が配置されているだけ。その配置によって心情が浮かび上がってくる。これが、比喩ではなく配置、の詩法です。
この歌はさらに過激です。「射倖心」「ルーレット」「自棄」「思惟」という四語が、カンマで区切られながら連なる。硬質な漢字熟語と外来語のカタカナとが一首の中で衝突し、その語彙の摩擦そのものが効果を持ちます。
そこへ「人体骨格模型」が絡みつく。骨格模型は教育用の標本、つまり、死の可視化です。それが抽象的な思念に絡みつく、という倒錯したイメージ。考えることが物質化されて、骨になる。このグロテスクな美しさは、おそらく他の歌人には出せない感覚でしょう。
★ 吊革の歌 ――「誰が見ているか」を消す
列車の吊革。そこに「おびただしい手」がぶらさがっている。この歌には主語がありません。誰が見ているのかも不明です。
「おびただしい」という量の形容が、日常の風景を一瞬で異化します。手が独立した物体として切り取られ、群衆の匿名性が不気味なイメージに変わる。吊革は、雲の中に没するほど細く伸びているのに、そこにびっしりと手がある。
奇怪なのは、「おびただしい手」という表現だけでなく、その光景をだれが見ているのかが歌の中に書かれていない点にもあります。主体語が示されず、読者は視線の置き場を失い、車内の群衆を安心して眺めることができない。しかも、〈雲ふかく没する〉から〈ほそき吊革〉、さらに〈おびただしい手〉へと視線が滑っていくような句割れの運びが、遠景から近景へと場面をずらしながら、都市空間の落ち着かなさを強めている。ここでは都市は活気ある近代ではなく、匿名の身体が集積する不穏な場所として現れています。
杉原は都市を礼讃しているわけではない。都市の日常の中にある奇妙さ、人間が部品化されていく感覚、そこに詩を見出している。これが、彼の「モダニズム短歌」の実相です。
【AIによる作品図解:この歌では、だれが見ているのか?】
※読者の皆様がより深く作品を味わえるよう、AIツール(NotebookLM)で作成した補助資料です。

中城ふみ子――乳房喪失の衝撃と「私」の露出

北海道・帯広という出発点
杉原一司が影の中に消えた天才だとすれば、中城ふみ子(なかじょう・ふみこ)は、死の直前に光の中に引き出された才能でした。
1922年(大正11年)、中城ふみ子は北海道・帯広に生まれました。杉原の京都、久坂葉子の神戸とは対照的に、帯広は厳しい自然と開拓の歴史を持つ土地です。
彼女の人生は、順風満帆とは程遠いものでした。離婚、貧困、そして子供を抱えながらの生活苦。戦後の混乱期、北海道の地方都市で、一人の女性が生き抜くことの困難さ。その全てが、彼女の短歌の背景にあります。
肉体の喪失と言葉の獲得
1952年、彼女は乳癌と診断されます。そして、両乳房の切除手術を受けました。
女性の象徴ともいえる乳房を失うことは、肉体的な苦痛だけでなく、深い精神的な傷でもありました。中城ふみ子は、喪失を隠すことも、美化することもしませんでした。代わりに、その衝撃を31文字に刻み込みました。
乳房をもぎとられしとき わがなかに生き生きと湧く生のいかりよ
歌の核心は「もぎとられしとき」という回想と、そこから湧きあがる「生のいかりよ」という感情の爆発にあります。「切除された」でも「失った」でもなく、「もぎとられた」。暴力的で、生々しく、そして抗いがたい力に奪われたという認識が、そのまま言葉になっています。
注目したいのは、その瞬間に湧いたものが、悲しみでも絶望でもなく、「生のいかり」だということです。死の予感に直面したとき、たましいの奥底から ”生きたい” という怒りが、かくも「生き生きと」噴き出す。その逆説が、一首に凝縮されています。中城ふみ子は、喪失を嘆くのではなく、喪失の瞬間を、生の激しさへと転換してみせました。
短歌研究新人賞と死の直前の栄光

短歌研究新人賞と死の直前の栄光
1954年、中城ふみ子は『短歌研究』誌の五十首詠に応募し、特選となります。これは彼女にとって、そして戦後短歌史にとっても、重要な出来事でした。
それまでの女流短歌には、奥ゆかしさ、情緒、控えめな自己表現といったものが求められていました。中城ふみ子の歌は、そうした既成概念を打ち破るものでした。
彼女の歌は赤裸々でした。エゴイスティックでした。自分の欲望、苦しみ、怒り、あるいは死への恐怖を、何の装飾もなくさらけ出しました。歌壇の保守的な一部からは「ヒステリックだ」「過剰な身ぶりだ」と批判されました。しかし、若い読者や歌壇の新しい世代には、熱狂的に受け入れられました。川端康成が歌集の序文を書いたことも、当時の文壇における衝撃の大きさを物語っています。
1954年8月、31歳の死
特選入選からわずか数ヶ月後、1954年8月、中城ふみ子は癌の進行により31歳で亡くなりました。
その死は、当時のメディアによってセンセーショナルに取り上げられました。「死に行く若き女性歌人」「乳房を失った歌人」。その物語性は大衆の好奇心を刺激し、後に映画化もされました。現代における”難病もの”コンテンツ消費の先駆けとも言える現象でした。彼女の死と苦しみは、時に消費され、商品化されました。
しかし、そうした外部の喧噪とは無関係に、彼女が遺した歌の強度は、時間を経ても全く衰えていません。
流氷の浮く海が見ゆ 女ひとり生きてつひに微細なるとき
北海道の海。流氷。そして「微細なるとき」——死の間際に向かっていく自己を、これほど静かに、これほど広大な景色のなかに置いた歌人がいたでしょうか。彼女は、良き母や良き妻の役割を演じることを拒否し、一人の女、一人の表現者として生き、そして死んだのです。
さらに中城ふみ子の歌を精読する

中城ふみ子の作品精読に入る前に、一つ確認しておきたいことがあります。
彼女の作品は、「乳癌で乳房を失い、恋多く、31歳で死んだ女性歌人」という物語と、どうしてもセットで語られがちです。でも、そのセンセーショナルな物語に引っ張られると、歌の技法が見えなくなる。今回は意識して、これほど強い歌になるのはどんな技法のせいか、という単純な問いを立てながら読んでいきましょう。
📖 歌集が出るまでの経緯
前述のように、1954年、中城ふみ子は「短歌研究」誌の「五十首詠」という公募に応募し、特選一席を獲得します。編集者・中井英夫の関与のもとで、同年中に歌集『乳房喪失』が刊行されました(CiNii書誌:BN12872623)。
ポイントは、これが病床の日記ではなく、公募という制度を通過した公刊作品だということです。五十首という量、選考というプロセスを経て、個人の身体的な出来事が、文学として事件化した。そうした事実が以下の精読の前提になります。
★ 冬の海の歌 ――「見る」という意志
代表作から読んでいきましょう。
最初に引っかかるのは「皺よせゐる海」という比喩の質です。海といえば広大・永遠・雄大、という象徴が一般的です。でも中城の海は「皺(しわ)」を持っている。
皺は、老化・衰弱・崩壊の言葉です。冬の海面が細かく波立つ様子を「皺」と見たとき、それは同時に、衰弱していく自分の身体と重なります。外の自然が、自己の鏡になっている。

「今少し生きて」という句が面白いと思います。これは、生きたい、という切実な希望ではなく、もう少しだけ延長申請する、という感覚です。その延長の目的が「己れの無惨を見むか」――自分の惨めな状態を、最後まで見届けること。
病苦の嘆きではありません。崩れていく自分を ”見る” という意志の宣言です。感傷ではなく、観察への執着。歌人としての私が、病む私を最後まで見つめる。この自己凝視の強靭さが、この歌を慰撫や悲嘆とは別の次元へ押し上げています。
★ 性愛と癌の歌 ――副詞一語が作る「時間差の恐怖」
この歌は、近代短歌の抒情規範をかなり大きく越えています。口づけを受ける性愛の場面と、癌が進行する場面が、同じ一首の中に並置されている。
「乳房熱かりき」の熱は、口づけ――「唇を捺されて」の熱です。でも、その乳房で癌が進行している。技法の核心は「ひそかに」という副詞にあります。癌は「嘲ふがに(笑うように)」「ひそかに(こっそりと)」進行する。擬人化された癌が、悪意を持った主体として描かれている。
〈 ひそか 〉という語一つで、進行の不可視性と陰険さが生まれます。性愛の熱の場面に、その〈 ひそか 〉が重なる。救いではなく、侵食の進行形として読める。この時間差の恐怖が、短歌という小さな器の中で、恍惚を握りつぶすように圧縮されています。
★ 「かなしみ給へ」の歌 ――受動しながら命令する
この一首の印象的なところは、激しい愛の場面を詠みながら、そこにただ甘い情感だけを置いていないところです。
「灼きつくす口づけ」は、燃え上がるような情熱を感じさせる一方で、相手を傷つけるほどの強さや、身を焼くような痛みも帯びています。愛の熱が、そのまま苦しみにもつながっているようです。
そうした口づけを、「目をあけて うけたる」とあるのも、この歌の大きな特徴でしょう。夢中になって我を忘れるのではなく、自分に起きていることを明瞭に見つめたまま受けとめているのです。そこには、恋に溺れる姿というよりも、愛のただ中でなお醒めた意識を失わない、張りつめた心のあり方が感じられます。
そして結句の「かなしみ給へ」は、とても深い余韻を残します。ただ同情を求めているのではなく、このように、かっと目を開いたままに愛撫を受けた私の痛みを、どうか見てほしい、と訴えているようです。
この歌は、愛の歓びよりもむしろ、愛することのなかであらわになる孤独や悲しみを、鋭く照らした一首といえるでしょう。
★ 「花の原型」の歌 ――内側に形式を持つ
中城の歌の中で、少し毛色の違う一首です。病苦・性愛・死への恐怖が渦巻く作品群の中で、この歌には「宣言」の調子があります。
「年々に滅びて且つは鮮しき」という逆方向の同居が核心です。滅びること(死・喪失・老化)と、鮮しいこと(新鮮・清潔・若さ)は、普通は反対方向を向きます。でもこの歌は、その矛盾を「花の原型」で統合する。
伝統的な短歌では、花は ”外側にある自然” です。でも中城の花は「わがうちにあり」――自分の内側にある。花が外界の装飾ではなく、内界の構造・形式として再定義されています。
崩れていく身体に対して、内的な形式(原型)だけは手放さない。慰めではなく、表現者としての宣言です。歌を詠み続けることが、自分の「花の原型」を確かめる行為である、という詩学がここに凝縮されています。
二つの道――影に生きた者と光に曝された者

杉原一司と中城ふみ子。ふたりを並べてみると、対照的な運命が見えてきます。
| 項目 | 杉原一司 | 中城ふみ子 |
| 没年 | 1950年(23歳) | 1954年(31歳) |
| 死因 | 病死(結核?) | 病死(乳癌) |
| 生前の評価 | 同人誌内のみ | 新人賞受賞 |
| 歌集 | 生前刊行なし | 『乳房喪失』(1954年) |
| 作風 | 象徴的、装飾的、難解 | 直接的、赤裸々、強烈 |
| 継承者 | 塚本邦雄 | 多くの女性歌人たち |
| 死後の扱い | 静かな記憶 | メディア的消費 |
杉原は、自らの作品を世に問う機会をほとんど持てませんでした。彼の才能は、塚本邦雄という一人の友人の記憶と作品の中にしか残りませんでした。彼は影の中に生き、影の中に消えました。
一方、中城ふみ子は、死の直前に光の中に引き出されました。賞を受け、注目を浴び、死後もその名は語り継がれました。その光は時に、彼女を消費する装置ともなりました。
どちらが幸福だったか、などという問いに意味はありません。ただ、この二つの対照的な運命は、文学史における記憶のされ方の多様性を示しています。
対照的な二つの詩法
作品そのもので見ると、違いがくっきりしてきます。
| 杉原一司(方法の詩学) ◆ 名詞を密度高く並べる ◆ 機械・標本・カタカナ語の「冷たい語群」 ◆ 動詞は極力省く ◆ 主語・主体を消す ◆ 比喩ではなく「配置」で意味を作る ◆ 感情は対象に「付着」する | 中城ふみ子(身体の詩学) ◆ 身体語・感覚語が中心 ◆ 副詞(ひそかに・嘲ふがに)が時間差を作る ◆ 動詞は到達・命令・問いで締める ◆ 自己を三人称で見る ◆ 自然が「身体の鏡」になる ◆ 命令形で主導権を取り返す |
一言でまとめるなら、こうなります。
杉原は「対象を切断・配置することで感情を物質化する」。感情を語らず、物の並べ方で喚起する。
中城は「身体という一点から爆発し、命令形・反復・擬人化で感情を事件化する」。語らないのではなく、語りすぎるくらい語りながら、最後に主導権を取る。
どちらも31音という同じ制約の中にある。でも操作の方向は真逆です。この対照が、定型詩の中に何がどれくらい入るか、という問いへの、二つの極端な答えを示しています。
おわりに――31文字という器の力

なぜ、彼らは短歌という形式を選んだのでしょうか。
自由詩であれば、もっと多くの言葉を使えたはずです。散文であれば、もっと詳しく状況を描写できたはずです。
理由の一つは、圧縮の力です。過剰な感情、溢れ出る言葉。それらを31文字という小さな器に押し込むことで、高密度のエネルギー体となります。中城ふみ子の「もぎとられしか」という言葉は、長い散文の中に綴られた一文だったら、ここまでの衝撃力は無かったかもしれません。
もう一つは、伝統という重しです。千年以上にわたって、日本語の感情や祈りや嘆きを受け止めてきた形式。その重みに抗い、あるいはその重みを利用することで、彼らの言葉は単なる個人的な嘆きを超えた、普遍性を獲得しました。
杉原一司は、象徴派的な感覚や都市の不穏な気配といった新しい詩精神を持ち込むことで、短歌を内側から揺さぶろうとしました。中城ふみ子は、女性の身体や欲望、病と喪失といった、それまで十分には歌われてこなかった切実な現実を、ためらわず短歌の中へ差し出しました。
彼らにとって、31文字という器は、檻であると同時に、聖域でもあったのです。
現代への問い――身体と言葉の関係

中城ふみ子の「乳房喪失」の歌は、現代の私たちにとっても、なお鋭い問いを投げかけています。
身体が損なわれたとき、人は何を失うのでしょうか。器官や機能だけではありません。自己像、他者との関係、欲望のあり方、さらに、私は私であると感じる感覚そのものまで含まれているはずです。身体の変化は、しばし存在の変化でもあります。中城ふみ子の歌は、病気の記録にとどまらず、自己が崩れていく瞬間に、なおも言葉によって自分をつなぎとめようとする闘いとして読まれます。
彼女にとって短歌は、失われた乳房の代用品などという単純なものではなかったでしょう。失われていく身体を前にして、やはり私はここにいた、という痕跡を残すための、別種の身体だったのだと思います。肉体が時間の中で衰え、傷つき、やがて消えていくものである以上、言葉はそれに抗うためのもう一つの存在形式となり得ます。
歌は皮膚の代わりにはなれない。痛みを消すこともできない。それでも、痛みがあったこと、傷ついた主体が確かに生きていたことを、時空の彼方へ運ぶことはできるのです。
この問題は、現代の私たちにとっても決して他人事ではありません。いま私たちは、SNSや各種メディアのなかで、日々 ”言葉による自己” ”画像による自己” を作り続けています。プロフィール、投稿文、写真、履歴――たしかに物理的身体とは別の姿で、もう一人の私を外部に出現させます。

それらはこの身体の代わりになりうるのか? 天文学的な計算力で成り立つ言葉やイメージによって作られた居心地の良い楽園に住む自己は、どこまで苦痛や孤独を引き受けられるのか? この問いは、むしろデジタル化の進んだ現代のほうが、いっそう切実かもしれません。
中城ふみ子の短歌は、70年近くが経った今も残っています。しかし、彼女の肉体はもうありません。言葉は身体よりも長く生きるが、言葉は身体の痛みを完全に代替することはできない。しかし、そこに苦痛を超えた不変の自己があるように ”感じる” 。全芸術家が問うた永遠の矛盾の中で、彼女は31文字を紡ぎ続けたのです。
二人の歌人の作品に触れるには

杉原一司の作品は、単独の歌集としてはほとんど刊行されておらず、下記のものを上げておきます。しかし、前衛短歌のアンソロジーや、塚本邦雄の評論・エッセイの中で、彼の歌や思い出が語られています。塚本邦雄の著作を読むことが、杉原一司に近づく一つの道です。
いっぽう、中城ふみ子の作品は、現在も読むことができます。
- 『中城ふみ子歌集』(平凡社ライブラリー)
- 定本 中城ふみ子歌集 『乳房喪失』(角川書店)
彼女の代表作を集めた文庫本は、今も版を重ねています。図書館や書店で手に取ることができます。
次回予告:型を壊す者たち

これまで、詩と短歌という「言葉の芸術」の中で生きた夭折者たちを見てきました。次回は、さらに自由な、あるいはさらに制約を超えた表現を求めた人たちに目を向けます。
五・七・五という俳句の定型さえも拒否し、「自由律」という道を選んだ俳人、住宅顕信。そして、カトリック信仰という精神的な拠り所の中で、静謐な詩を紡いだ野村英夫。
一人は1980年代のバブル経済前夜、病床で「ずぶぬれて犬ころ」という句を遺して25歳で逝きました。もう一人は戦後直後、サナトリウムで祈りの詩を書き、30代前半で天に召されました。
定型を破壊した者と、定型を超えた者。次回、自由と祈りの領域へと旅を進めます。
どうぞお楽しみに。
(第4回 完)
📚 参考・一次資料
【杉原一司関連】
【中城ふみ子関連】


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