はじめに―病と愛が、人生の意味を問いかけるとき

— 詩と彫刻を通じて「人間の真の美」を追い求めた芸術家。
(説明)英語: 高村光太郎、29歳
日本語: 高村光太郎、29歳
日付:1912年頃
著者:http://kajipon.com/
人生には、突然に深い喪失が訪れることがあります。たとえば長年連れ添った最愛の人が病に倒れ、ゆっくりと崩れていく姿を前にしたとき、私たちはあまりにも大きな問いに直面するでしょう。「この先、自分はどう生きていけばいいのか」。
高村光太郎の詩集『智恵子抄』は、妻・智恵子の心の病と死に直面した詩人自身の葛藤と愛の軌跡を綴った詩集です。そこには二人の出会いから新婚時代の高揚、智恵子の発病と悪化による死、そして荒涼とした日々を生きる残された光太郎の姿までもが収められ、深く純粋な愛の軌跡の結晶となっています。
病と愛が人生の意味を問いかける瞬間に、この詩集は静かに寄り添い、読む者に静かな問いを投げかけてきます。
本稿では、筆者自身が大きな病や両親代わりの祖母の亡失を経験し、時の移ろいと文学の力で心を癒してきた体験を背景に、『智恵子抄』に描かれた光太郎と智恵子の物語を辿りながら、深い喪失とどのように向き合い、人はどうすればもう一度歩み出せるのかを考えてみたいと思います。
愛する人の崩れゆく姿を前に —喪失の痛みと向き合う詩人

智恵子は光太郎にとって、自分を暗い淵から救い出してくれたかけがえのない人でした。しかし皮肉にも、彼女が確実な足取りで心を病んでいく過程を、夫である光太郎は成す術なく見守るしかありません。それはあまりにも酷しく、けれど耐えねばならない日々であり、光太郎にとってまさに煉獄のような試練でした。
愛する人が次第に現実の世界から遠ざかってゆく姿を前に、詩人は深い悲しみと絶望に打ちひしがれます。それでも彼は、愛する妻の壊れてゆく現実をまっすぐに見据え、その痛みを静かに言葉に刻みつけていくほかなかったのです。
「あなたはほんとうの空を見たか」— 心が壊れていく智恵子

光太郎の代表的な一篇「あどけない話」には、東京で暮らす智恵子が放った印象的な言葉が綴られています。
智恵子は東京に空が無いといふ
ほんとの空が見たいといふ
都会の空に「ほんとの空」を見いだせないという彼女の訴えは、いかにも無邪気な郷愁のようにも思えます。しかし光太郎はその言葉に、都会の暮らしに馴染めず心をすり減らしていく妻の悲痛な声を聞き取りました。智恵子は東北の豊かな自然に育まれた“自然の申し子”であり、「東京には空が無い」という嘆きは、生来身を置いていた大自然から引き離された魂の叫びだったのです。
都会での貧しく不自由な暮らしは、智恵子の繊細な心に重い負担となり、現実と幻想の境界は次第にあいまいになっていきました。光太郎は、いつか都会にも馴染むだろうと期待しましたが、智恵子の自然への希求は生涯変わらず、その純粋さゆえにかえって自身を追いつめてしまったのです。

結婚後まもなく智恵子は心を病み、やがて現実と幻想の区別がつかなくなるほど症状が進行してしまいます。
周囲の支えも虚しく、彼女の現実感覚は薄れ、「ほんとの空」への憧れだけが強まっていきました。愛する妻が壊れてゆく姿は光太郎にとって胸が引き裂かれるような思いでしたが、それでも詩人である彼は静かに現実を見つめ、その痛みを言葉に刻んでゆきました。
失われていく日々を見つめながら

智恵子の病状が悪化すると、光太郎は生活のすべてを投げうって彼女の介護に専念しました。一時は療養のため海辺に移り穏やかな日々を試みましたが、症状の進行や本人の不安もあって再び東京で看病に明け暮れることになります。
病は容赦なく智恵子を蝕み、感情は乱れて時に理性を失うこともあり、一瞬たりとも目が離せませんでした。
光太郎は、仕事どころではない、と嘆き、この時期には詩作の数も激減しています。愛する妻を救いたい一心で尽くしながらも、彼女が自分の手の届かない場所へ遠ざかっていくのを見守るしかない現実――それは光太郎にとって想像を絶する苦しみでした。課せられたのは、あまりに酷いが耐えねばならない煉獄の日々。まさに日ごと日ごと最愛の人を少しずつ抉り取られるような感覚だったに違いありません。
光太郎はその苦悩を厳粛に詩へと昇華しようとしました。詩集『智恵子抄』後半の作品群では、智恵子が現実の人間界を離れ大自然へ飛び去ってゆき、光太郎は遠くからその姿を見送る——そんな幻想的な情景が描かれています。そこには狂おしくも美しい別離の予感が漂い、光太郎は詩によって愛の喪失という現実を静かに見つめ続けたのです。
最期に遺された愛のかたち

やがて光太郎は覚悟を決め、智恵子を専門の病院に託しました。昭和13年(1938年)、智恵子は二度と自宅に戻ることなく、病院のベッドで静かに瞳を閉じます。「光太郎は後に『智恵子はあまりに純粋すぎたゆえの狂気に倒れたのだ』と語りました。
彼は妻の状態を単なる不幸ではなく、気高い魂ゆえの宿命と受け止めていたのでしょう。
(※この『狂気』は、高村光太郎が当時の時代背景と心情の中で用いた文学的な表現であり、現代の精神医学における用語とは異なります)」
智恵子の死後、光太郎は彼女の遺したものに深い感銘を受けました。病室からは多数の色とりどりの切り絵と、年月をかけ醸された梅酒が見つかったのです。いずれも光太郎への贈り物でした。

光太郎は「それらは智恵子の詩であり、この世への愛の表現だった」と語り、恥ずかしそうに作品を見せる彼女の笑顔が忘れられないとも回想しています。幻覚に囚われながらも、その胸には光太郎への愛も世界への愛も最後まで生き続けていたのです。
亡くなる当日、智恵子は自作の切り絵の束をすべて光太郎に手渡し、ほっとしたように微笑んだと伝えられています。そして臨終の間際、光太郎が差し出した一個のレモンを、智恵子は嬉しそうにかじりました。みずみずしい爽やかな香りに包まれて静かに息を引き取ったのです。最期の一瞬、正気に戻ったかのような澄んだ瞳と穏やかな表情――光太郎の心に、生涯残る光景となりました。智恵子という儚い女性が命を削って遺したもの。それは紛れもなく愛そのままの姿だったのです。
絶望の底で見いだしたもの —光太郎の心の軌跡

智恵子の死によって、光太郎の心は千尋の絶望の淵に沈みました。長年にわたる看病の末に妻を喪った喪失感は計り知れず、胸には大きな穴が空いたことでしょう。悲嘆に暮れる荒涼たる日々の中で、光太郎はどのようにして静かに立ち上がる力を見いだしたのでしょうか。彼の詩と人生の軌跡を辿ると、絶望の底から歩み出すためのかすかな灯火が見えてきます。
「道程」に見る“生き直し”の意志

高村光太郎の代表作「道程」は、生きることへの強い意志を高らかに謳った詩として知られています。若き光太郎が記したこの詩は、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」という有名な一節で始まり、自分の歩んだ足跡こそが後に道となって続いていくのだ、と力強く告げています。
長い詩篇の中で詩人は、人生には混沌や行き止まりの絶望もあったと告白しつつ、「それだのに/やっぱりこれが生命に導く道だった」と悟ります。どんな暗い道も自分を生命へ導いてくれた不可欠な道程だったのだ、と。そして「そして僕はここまで来てしまった」と静かに綴り、苦難の旅路をあるがままに受け容れるのです。
智恵子を喪った後、光太郎もこの「道程」の詩句を改めて噛みしめたことでしょう。絶望の底に沈んでいても、その絶望ごと歩み続けるしかない――それが彼の見いだした答えでした。実際、妻の死から3年を経て光太郎は詩集『智恵子抄』を編み上げ、生涯をかけて彼女への愛の軌跡を後世に遺しています。その陰には、智恵子が与え続けてくれた精神的支えがあったに違いありません。
周囲も「智恵子さんの純粋な心で光太郎さんは生きる道を再確認した」と証言しています。深い絶望の淵から光太郎をもう一度立ち上がらせたもの——それは他ならぬ智恵子のかけがえのない面影と、彼女が遺してくれた数々の思い出だったのです。
彫刻家としての沈黙と祈り

光太郎は詩人であると同時に彫刻家でもあり、言葉にならない祈りを彫刻という形で刻み続けました。智恵子の死後、彼は戦後の混乱期に岩手の山中に小さな小屋を結んで独り暮らしを始めます。
世間を離れた厳しい生活でしたが、光太郎は、少しも孤独ではなかった、と言います。仏教で慈悲の象徴とされる観音様のように、智恵子が常にそばで見守っていてくれたからでしょう。無言の同伴者を胸に懐きながら、光太郎はその後の歳月を過ごしました。
晩年、光太郎は最後の大作として青森県・十和田湖畔に「乙女の像」を完成させました。その作品は、智恵子をモデルにした二体の観音像とも言われます。光太郎はそこに亡き妻への鎮魂と愛惜、自らへの励ましの祈り、を刻み込みました。
台座付近の石碑には自作の詩の一節が刻まれており、像に向かって「何千年でも黙って立ち続けよ」と促す内容です。それは亡き妻の魂を宿した像へのメッセージであると同時に、自身への戒めでもありました。
湖畔にひっそりと立つ乙女の像の前に佇むと、自然と祈りにも似た厳かな想いが胸に湧き上がります。病の彼方へ旅立った智恵子の後ろ姿を見送りながら、ひたすら祈り続けた光太郎の面影を映し出しているかのようです。言葉を尽くした詩人が最後に辿り着いた境地──沈黙の彫刻に託された祈り。それは沈黙の中に何より雄弁な愛の形を刻みつけた、光太郎なりの答えでした。
智恵子と光太郎が遺したもの —愛のかたちの変化

愛する伴侶との死別は、人が経験しうる最も辛い喪失の一つでしょう。高村光太郎は最愛の妻・智恵子を喪うという深い悲しみを味わいました。しかし彼ら二人が遺したものは、決して悲嘆だけではありません。その後の光太郎の生と創作から浮かび上がってくるのは、愛のかたちの変化です。生前は確かに“共に生きた”二人でしたが、死別を経た後もなお、新たなかたちで“共に在り続けた”ように思えるのです。
“共に生きる”から“共に記憶してゆく”へ
智恵子が存命の間、光太郎は彼女と共に笑い合い支え合いながら日々を過ごしていました。だが肉体の死によってその営みは断たれ、光太郎はひとり残されます。それでも彼は、智恵子と“共に記憶の中を生きる”道を選び取りました。

彼は智恵子との思い出を抱きしめ、作品を書き続ける、彫刻を創り続けることで彼女の存在をこの世に刻み付けていきます。死後3年を経て刊行された詩集『智恵子抄』には、長年にわたる二人の愛の軌跡が凝縮され、寂寞たる光太郎の日常に今も智恵子が息づいているように描かれています。
光太郎にとって智恵子への愛は彼女の死で終わったわけではありませんでした。面影だけの智恵子は生涯の伴侶であり続け、清らかな魂は行住坐臥、光太郎を支え導いていたのです。孤独な山荘で暮らしていても、光太郎は「少しも孤独ではなかった」と感じていました。無言の同伴者を胸に抱きながら、自らの芸術と思索を静かに深めてゆきました。
それは“共に生きる”日々から“共に記憶してゆく”日々への移行だったと言えるでしょう。愛する人との記憶を毎日新たに呼び覚まし、その人を心の中によみがえらせながら歩み続ける──それは愛する者を喪った人間のみに許され託された、ひとつの生のかたちなのかもしれません。
智恵子の残したものと愛の深化

智恵子自身もまた、数多くのものをこの世に遺しました。色とりどりの切り絵や折り鶴といった形見の品だけでなく、恥じらう笑顔やレモンをかじって静かに息を引き取った最期の記憶、そして何より彼女のひたむきな愛…。
智恵子という存在そのものが、光太郎にとってかけがえのない宝物となったのです。
光太郎はその記憶と共に生き、作品を通じて智恵子と “共に記憶してゆく” ことを選びました。生身の人間として隣にいなくとも、胸の内に生き続ける存在と歩み続ける。それは悲しい人生の変遷でもあり、美しい愛の深化でもあります。現世の営みから魂の次元へとかたちを変えながら、光太郎と智恵子の愛はなお二人を固く結びつけ続けました。
二人の愛の証は読む者の胸にも厳粛な感動を残します。智恵子が遺した愛の証しは光太郎に生き続け、そんな光太郎の生き様が私たちの心を打つのです。共に生きることが叶わなくなっても、共に記憶してゆくことで愛は弛みなく持続しうる──私たちは『智恵子抄』という作品から、そんな希望の悠久の光を受け取ることができます。
『智恵子抄』を象徴する四つの詩
ここでは、『智恵子抄』の中の、高村光太郎と智恵子の生涯を貫く愛の軌跡を刻んだ象徴的な四つの詩を選びました。肉体の衰えを超えた“清冽な美”、別離を包む“静かな再生”、死を越えた“内的合一”、そして孤独の果てに見出された“普遍的な生命”への祈り――。
その四篇をたどりながら、光太郎がどのように喪失を愛に変えた詩人であったのかを見つめていきます。
あなたはだんだんきれいになる ― 肉体を超えてゆく“清冽な生命”
青空文庫 高村光太郎『智恵子抄』よりあなたはだんだんきれいになる
をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。
この詩に描かれる「きれいになる」とは、装飾的な美しさではなく、人としての本質が露わになる美です。智恵子が「附属品をだんだん棄てる」とは、社会的な見栄や世俗の飾りを手放していくこと。その過程で、彼女の存在は “無辺際を飛ぶ天の金属” のように、透徹した精神性を帯びていきます。
光太郎は、老いや病を ”醜さ” としてではなく、“清め” の過程として見つめています。愛する人の衰えを前にしてなお、彼の視線は肉体を超えた魂の美を見出しているのです。それは、苦痛を通してしか触れられない、人間存在の尊厳と浄化の瞬間でもあります。
レモン哀歌 ― 一瞬の“再生”としての別れ
青空文庫 高村光太郎『智恵子抄』よりレモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
『智恵子抄』を代表するこの詩は、智恵子の最期の場面を描いたものです。
死の床にある彼女が「レモンを待つてゐた」という描写は、彼女の魂が再び “生” を取り戻す瞬間の象徴です。レモンの酸味と香気が「意識を正常にした」と語る一節には、死の境で訪れる清明のひとときが感じられます。
智恵子は「青く澄んだ眼」で微笑み、光太郎の手を握り返す。そこには悲しみではなく、永遠の愛の成就がある。「写真の前に挿した桜の花かげに すずしく光るレモンを今日も置かう」という結びは、彼が喪失を超えて愛を供える“祈り”の象徴です。
この詩は、愛が死をも浄化し、喪失の中に美を見出す文学的奇跡といえるでしょう。
元素智恵子 ― 「肉に宿る魂」としての智恵子の再生
青空文庫 高村光太郎『智恵子抄』より元素智恵子
智恵子はすでに元素にかへつた。
わたくしは心霊独存の理を信じない。
智恵子はしかも実存する。
智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火を燃やし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、
わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
精神とは肉体の別の名だ。
わたくしの肉に居る智恵子は、
そのままわたくしの精神の極北。
智恵子はこよなき審判者であり、
うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
耳に智恵子の声をきく時わたくしは正しい。
智恵子はただ嘻々としてとびはね、
わたくしの全存在をかけめぐる。
元素智恵子は今でもなほ
わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。
「智恵子はすでに元素にかへつた」という冒頭の一句は、死を超えた新しい存在の宣言です。光太郎は、宗教的な霊魂の永続を否定しながらも、「智恵子はわたくしの肉に居る」と語ります。それは、形を失ってもなお、愛する者の記憶が生きる者の身体と精神を動かし続けるという確信です。
彼にとって智恵子は “精神の極北” であり、“内なる審判者” であり、“創造の源” でもある。この詩では、喪失が「死別」ではなく「内的合一」へと昇華しており、愛の究極形が示されています。
光太郎にとって智恵子は、もはや外にいる他者ではなく、生命そのものの律動を司る存在となったのです。
人類の泉 ― 個人の愛から“普遍的生命”へ

私にはあなたがある
あなたがある
人類の泉
世界がわかわかしい緑になつて
青空文庫 高村光太郎『智恵子抄』より
青い雨がまた降つて来ます
この雨の音が
むらがり起る生物のいのちのあらわれとなつて
いつも私を堪らなくおびやかすのです
そして私のいきり立つ魂は
私を乗り超え私を脱れて
づんづんと私を作つてゆくのです
いま死んで いま生れるのです
二時が三時になり
青葉のさきから又も若葉の萌え出すやうに
今日もこの魂の加速度を
自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
そして極度の静寂をたもつて
ぢつと坐つてゐました
自然と涙が流れ
抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
あなたは本当に私の半身です
あなたが一番たしかに私の信を握り
あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
私にはあなたがある
あなたがある
私はかなり惨酷に人間の孤独を味つて来たのです
おそろしい自棄の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
私の生を根から見てくれるのは
私を全部に解してくれるのは
ただあなたです
私は自分のゆく道の開路者です
私の正しさは草木の正しさです
ああ あなたは其を生きた眼で見てくれるのです
もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
あなたは海水の流動する力をもつてゐます
あなたが私にある事は
微笑が私にある事です
あなたによつて私の生は複雑になり 豊富になります
そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
私は今生きてゐる社会で
もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました
もう共に手を取る友達はありません
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
私はこの孤独を悲しまなくなりました
此は自然であり 又必然であるのですから
そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
けれども
私にあなたが無いとしたら――
ああ それは想像も出来ません
想像するのも愚かです
私にはあなたがある
あなたがある
そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
私は人から離れて孤独になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します
ヒユウマニテイの中に活躍します
すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
あなたは私の為めに生れたのだ
私にはあなたがある
あなたがある あなたがある
『智恵子抄』の中でもとりわけ壮大なこの詩は、私的な愛を越え、人類全体への祈りへと開かれていきます。智恵子への思慕が「人類の泉」へとつながるのは、彼女を通して人間存在そのものの再生を感じ取ったからです。
「私は自分のゆく道の開路者です」と語る光太郎は、孤独の中にあっても生の確信を失わない。それは、智恵子という “半身” を通して得た、人間の根源的な生命感です。
「私は人から離れて孤独になりながら、あなたを通じて再び人類の生きた気息に接します」という一節にこそ、喪失から普遍へ、個人の愛から人類愛への昇華が明確に示されています。
この詩編のどこか一語でも、空々しい取り繕ったような言葉があるでしょうか。まるで自分の耳元で一人の生々しいささやきが、否、人間よりも真に迫った何物かのつぶやきが漏れてくるような感覚が起きるのではないでしょうか。永遠不滅の詩は現代の誰でも使うような簡単な語で現わされ、それでいで、誰もまねのできない超然たる被造物なのだと再確信します。
この詩は『智恵子抄』を超えた光太郎自身の再生の詩であり、記事の締めくくりにふさわしい、愛と創造の到達点です。
おわりに —喪失の先に灯る光

高村光太郎と智恵子の物語は、深い喪失と再生の物語です。しかしそれは決して声高に語られることのない、粛々と胸に染み入る物語として私たちに迫ってきます。智恵子の病と死、それに向き合った光太郎の歩みを辿って感じるのは、人間の強靭さと慈愛の深さです。
光太郎は絶望の淵からゆっくりと立ち上がり、もう一度自らの人生を選び取りました。愛する人の記憶と共に生き切る道を歩み始めたのです。決して派手なものではなく、むしろ世間から離れた静かなものでしたが、そこには人間が絶望を乗り越えてゆく上で必要な大切なものが凝縮されているように思えます。
人生には避けられない悲嘆があり、愛する人を失う試練もほぼ必ずあります。でもその先に真っ暗な闇しかないわけではありません。光太郎もしかり、人は記憶と思い出の中に愛する人の生をもう一度見いだし、感じることができるのです。

亡き人の遺したあらゆるものに支えられながら、私たちは静かに、また敢然と立ち上がることができます。
『智恵子抄』を読み終えたとき、悲しみと共に、ユーモアにも似た不思議な温もりが胸に兆すのを覚えるでしょう。深々たる喪失の物語でありながら、それでもなお人生を肯定する光が射し込んでくるのです。智恵子の純粋な生き様と光太郎の強い愛が融合したこの詩集は、私たちに人生の意味を問い直すきっかけを与えてくれます。
底本:「智恵子抄」新潮文庫、新潮社
1956(昭和31)年7月15日発行
1967(昭和42)年12月15日43刷改版
1984(昭和59)年12月15日79刷
※詩歌の天は、底本では、散文の二字分下に設定してあります。
入力:たきがは、門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月20日作成
2014年6月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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